テンションが下がり気味

今日は楽団の練習日。今日は合奏の練習でした。もう県大会までの練習回数が10回を切っているというのに、日曜日の合同演奏会(id:beer_barrel:20050717:p1)で中高生たちの微妙な演奏を一日中聞かされて以来、なんか激しくテンションが下がり気味です。
合奏までに気持ちの整理がつかなかったため、大人なんだし状況によってどんどん気持ちを切り替えていかなければいけないのですが、今日の合奏には心ここにあらずという状態で臨んでしまいました。が、やっぱり心がここに居ないと、演奏の方は全然ダメダメですね(涙)
 
正直、こんな精神状態で楽器を吹いていても辛いだけですし、しばらく楽器を吹きたくない気分です。色々と思うことがあまりにも多すぎるため、しばらく楽器を吹くのから離れ、心の整理を兼ねて休養を取るのが一番良いのでしょうか?
皆さんはこういった気分になったとき、どう対処されますか?
 

みんながんばれ、俺もがんばれ

別に下手なのは仕方がないし、そもそもこの日記を書いている私はこの上なくヘタクソなんだけど、聴いていてやる気が微塵も感じられない演奏や、音楽から熱いものを感じられない冷え切った演奏は大問題です。
音楽に関する素人でも、私のような音楽に関する才能が全く無いような人間でも、音楽を聞けば「良い」か「悪い」かぐらい、すぐ解ります。もちろん「何か」の中身はそれぞれ異なりますが、音楽から「何か」が伝わってくるような演奏が良い演奏、音楽から「何か」が伝わってこない演奏が悪い演奏です。
この「何か」ですが、もちろん技術的なものも存在しますし、感性的なものも存在しますし、あるいは直接音楽とは関係ない要素すら存在します。
 
最近、この「何か」が、あまりにも技術的な方向に走りすぎているような気がします。もちろん技術的な裏づけは非常に大切ですし、まずは技術的な裏づけの部分から楽器の腕を磨いていかなければいけないことも判っています。吹奏楽コンクールでも、まずチェックされるのはこの部分です。私が担当しているクラリネットの場合、他のパートに比べて楽譜が難しいことが多いため、この技術的な側面がより強調されることが多いです。
音楽とは、ただ単に音を並べれば良いというものでは決してありません。音を並べるだけなら、それこそ「打ち込み音楽」をコンピュータにさせれば良いのです。以前このブログでも紹介した「妖精エアと死のワルツ(id:beer_barrel:20050709:p1)」ですが、あんな人間では絶対に弾けないような楽譜でも、パソコンなら難なく演奏してくれます。所詮、人間に技術をいくら上げたところで、正確さに関してはコンピュータにはかないません。
 
何故ヘタクソな私が音楽を始め、いまだに懲りもせずに音楽を続けているのかといえば、かって音楽から伝わる「何か」に深く感動したことがあったためです。以来、「私も『何か』を伝えることができる音楽を奏でたい」という思いで、今まで音楽を続けてきました。
だから、音楽から「何か」を伝えようとしない音楽を聴かされると激しく落ち込んでしまいますし、技術的な上手い下手は関係なく、音楽から「何か」を伝えようとしない音楽とは関わりたくないものです。
「なぜ、単に音を羅列しただけで躍動感の全く感じられないマーチを平気で演奏するの!?」、「なぜ、聴いている人にマイナスの『何か』を伝えてしまうような嫌悪感を感じる音でクラリネットを吹くの!?」、「そもそもなぜ、聴いている人に『何か』を伝えようとする訳でもなく、ただ『業務』のように舞台上で楽器を吹いているの!?」。日曜日の合同演奏会を思い出すたびに、ああいう演奏だけはしてはいかんと強く心に感じます。
 
私たちが音楽をするのは「業務」ではありません、「趣味」なのです。なのに、なぜ「本番だから吹きました」とか、「行事だからここに来て演奏しました」とか、そういった流れ作業のような音楽を平気でするのでしょうか? 行事一つに生活のかかっているプロなら、たとえ流れ作業のような本番であっても良い演奏ができるでしょうし、たとえ流れ作業のような本番でも良い演奏が出来ないような人間はプロを続けられませんが、私たちは趣味で音楽をやっている素人、そんな生半可な気持ちで良い音楽なんて出来ません。
もしかして「合同演奏会だから気合が入っていませんでした。もちろん自分たちの演奏会やコンクールといった『大きな行事』では良い演奏をしますよ。」なんて言う奴が居るかもしれませんが、目の前にある行事でまともに吹こうとしない奴が、さらに言えば練習のときにまともに吹こうとしない奴が、「大きな行事」と自称する行事でまともに吹ける訳がありません!