いわゆる「編曲問題」について

bandnerdさんの「■オーケストラの編曲作品を行うに当たって(id:bandnerd:20050423:p2)」を読んで、私も改めて色々と考えてみました。
なお、私の昨日の日記(id:beer_barrel:20050426:p2)も同じような内容を取り上げていますので、こちらも併せてご覧ください。

 
そもそもなぜ吹奏楽界でオケアレンジが重用されているのかといえば、音楽的な品質が高いものが多く、手軽に名曲を体験できるからです。残念ながら吹奏楽のために作られた曲の多くは、数々の巨匠たちによって作られたオーケストラ曲に見劣りしてしまいますし、知名度もそんなに高くはありません。私はどちらかといえば、「せっかく吹奏楽をやっているんだったら、オリジナル作品をレパートリーの中心に据えていきたい」と考えています。しかし「オケアレンジを絶対に演奏するな!」とは主張しませんし、どんな曲あれ楽譜を手渡されればベストな演奏が出来るように最善を尽くしています。
吹奏楽の利点ですが、色々なジャンルの色々な曲を広く浅く取り上げることができる点です。あくまでも趣味で音楽をやっている身なので、たとえ「広く浅く」であっても色々と体験できるのが良いのです。色々なジャンルのいろいろな点を幅広く(節操もなく?)取り入れている吹奏楽に対し、しばしば「オリジナリティーが低いモノマネ文化」と切り捨てる人もいますが、私はそんな他ジャンルのいろいろな点を貪欲に取り入れる点こそが、吹奏楽の魅力の一つだと考えているため、どちらかといえば「オリジナル派」な私も、是非とも演奏したいオケアレンジ曲は多々存在します。音楽的な品質が高い名曲を演奏することは、演奏者としてとても楽しいし、意義のあることだと思うからです。
しかし、「ただ楽器を置き換えただけ」の編曲は聞いている側にとって苦痛だし、「吹奏楽でオーケストラの響きを再現しよう」的な試みに対しても私は異議を唱えます。大局的な音楽の流れを捉えるのとは別に、いかに上手くトレモロやピッチカート・ボウイングのアップダウンなどといった弦楽器の技を真似を出来るかといった「曲芸」の練習をするのは、私にとってはまったく意味のない作業に感じてしまいます。オケアレンジを演奏するとき、些細な点を重視するあまり、しばしば「木を見て森を見ず」といった状態に陥っているバンドを多々見かけます。見るべきものは森であり、決して個々の木ではありません。
オケアレンジを原曲どおりオーケストラっぽく演奏したいのであれば、オーケストラで演奏すれば良いのです。吹奏楽でオケアレンジを演奏する場合は、オーケストラっぽく演奏するのではなく、吹奏楽曲として根本から再構築し、あくまでも「吹奏楽向けに再構築された原曲とは全く異なるもの」と認識した上で演奏したいものです。そういった演奏を行なう上での大前提ですが、そもそも編曲がそういった点を認識して為されているか否かです。私は「トランスクリプションした楽譜」ではなく「アレンジ作品」を求めたいです。
しかし、残念ながら世の中には「オーケストラこそが最上の音楽」と思っている方も多いらしく、オーケストラの音色をコピーのような演奏を目指しているバンドの話をよく耳にします。しかし所詮は吹奏楽、いくら頑張ったところで吹奏楽の音しか出てきません。あまりにも「オケ至上主義(原理主義)」に凝り固まっている人を見ると、「なんでオケじゃなくって吹奏楽をやっているのかな〜?」という気分になってしまいますし、そんな人たちに囲まれてしまうと、私自身の意見がアンチテーゼとして「オリジナル至上主義(原理主義)」方向に走ってしまいがちで、もどかしい気分になってしまいます。「自分たち以外の考え方はダメ」と切り捨ててしまう原理主義は、その世界に浸っている限りにおいては非常に楽なのですが、原理主義に凝り固まっていては世界観がどんどん閉塞していくだけで、決して新しい世界を切り開くことはできません。
bandnerdさんは日記の中で「真似る事は良くても、コピーは良くない」と書いていますが、私もまさしくその通りだと思います。所詮コピーはコピー、いくら近づけたところで本物を越えることは不可能です。しかしオリジナル(元のもの)を参考にしてさらに良いものを創り出そうと努力すれば、オリジナルを超える新しいより価値あるものが誕生するかもしれません。
良くも悪くも「何でもあり」というのが、吹奏楽の最大の魅力の一つです。これからも色々な音楽ジャンルの様々な点をスポンジのように吸収し、吹奏楽というスタイルで演じるに最もふさわしい物をどんどんと生み出していってほしいものです。
 
・・・ますます解りにくくなってしまったような気が。