オケ編曲論争

最近、インターネット上でオーケストラからの編曲作品に対する白熱した議論を見かけたり、実際に昨日の記事に書いたとおり「ローマの祭りは吹奏楽の古典中の古典」という現状([id:beer_barrel:20061024:p1])なので、あまり書きたくない内容ですが、思わず書いてみました。
 
ちなみに私のスタンスですが、かつては原理主義的なアンチ・オケ編曲論者でしたが、最近では「オケっぽい響きの演奏を目指すのではなく、吹奏楽の響きに合致した演奏を目指しており、吹奏楽としての本文を忘れないでその作品を演奏している分には良いんじゃない?」というスタンスで、自分でもかなり丸くなったと思います。
ただ、今でもオケっぽい響きを目指した演奏、オケっぽい響きを要求する指揮者、オケっぽい響きを狙ったアレンジ、なんかの一つ覚えみたいに弦楽器のパートをクラリネットやサックスやユーフォに横滑りさせてしまったようなアレンジ、そしてクラリネットに「弦のような音を出せ!」と公言するような人には、口には出しませんが、内心では激しい嫌悪感を抱いてしまいます。
 
オケの曲をオケの響きっぽく演奏したいのであれば、それこそオケで演奏すれば良いわけで、わざわざ手間をかけて編曲し、弦楽器とはまったく違った響きでしか鳴らないクラリネットの合奏体にさも弦楽器のような役割を与えて酷使し、オケの劣化コピーのような音しか鳴らない吹奏楽で演奏する意味なんてありません。
そんな演奏を見たり、そんな話を聞くたびに、「じゃあ、わざわざ吹奏楽でではなく、素直にオケで演奏すれば?」という悶々とした感情を抱いてしまいます。
せっかく手間暇をかけてまで吹奏楽に編曲し、吹奏楽でオケ曲を演奏するのであれば、オケの演奏のコピーを目指すのではなく、吹奏楽の色彩感に合致し、吹奏楽の特徴を活かした演奏を目指せば良いのにと思います。
 
残念ながら、クラリネットでは、あの弦楽器の合奏体のような、透明感溢れる輝かしいまでに透き通った倍音に満ち溢れた響きは出せません。だってクラリネットクラリネットであり、決して弦楽器ではないのですから。
「弦楽器のような響き」をイメージすることは、管楽器奏者としても非常に重要かつ音楽的にも有意義な行為ですが、かといって「弦楽器のような響き」を実際に吹奏楽(管楽器)で出すことを目指したところで、いつまでも「弦楽器のような響き」を目指している限りは、結局はパチもんを追求しているだけです。
クラリネットの合奏体は、甘く暖かく柔らかく優しく、それでいて音圧ある音が出るので、そういった特性を活かせるような使い方をして欲しいのですが。
 
ほぼオーケストラのために書かれた原曲と一緒の楽譜を吹いている金管吹きやダブルリード吹きなどにとっては、オケ編曲作品を演奏したところで、それほど感情を激しく害することは無いかもしれませんが、クラリネット吹きの私にとっては、酷い編曲の楽譜を見るたび、「またヴァイオリンやヴィオラの楽譜の横滑りか!」というやり場の無い怒りと、「そんなオケオケイメージするなら、俺らの代わりに弦楽器奏者を呼んで演奏すれば?」というやり場のない無力感を抱いてしまいます。
 
吹奏楽の特徴を活かす編曲という意味では、なにかと否定的な意見も出る鈴木英史氏の「セレクションもの」ですが、私は良い方向性だと思いますし、吹奏楽アレンジの全体的な方向もそちらに進んで欲しいと思うのですが。
たとえばニューサウンズの編曲譜だって、原曲のような響きを目指して編曲されているのではなく、吹奏楽で良い響きがするようにアレンジしたり改変したりされているのですから、オケ編曲だって吹奏楽で良い響きがするようにアレンジしたり改変したりすれば良いのに、と思うのですが。
オケはオケ、吹奏楽吹奏楽という峻別をはっきりとつけた上で、オーケストラアレンジに取り組みたいものです。