ネストリアン

始めて聞いたときは一瞬何のことか戸惑ってしまった「ネストリアン」、よくよく考えてみればキリスト教ネストリウス派景教)のことですね。

ネストリウス派を題材にした吹奏楽作品ってどんなんだろう・・・と期待していたところ、すいそうがくに掲載された著者のコメントを読むと「(公会議にて)異端の烙印を押されて祖国を追われた人々が、ローマ帝国から唐に至るまでの苦難の道のりを描いた叙事詩」とのこと。ネストリアン・モニュメントとは、景教徒たちがシルクロードを辿って東へと逃れる途中の各所に残した数々の痕跡、最終的に到達した唐の国に建てられたキリスト教寺院である「大秦寺」や「大秦景教流行中国碑」などを意味しているそうです。
景教を題材に取り上げるとは、またディープな!」と思って作者の過去作品を見てみると、「吹奏楽のための『プレスター・ジョンの王国』」に「大航海時代」などが掲載されていました。
http://www.ajba.or.jp/suisougaku179.pdf




さて、ネストリウス派について書き出すと非常に難しいですし、学校の授業で習った程度の知識しか無いので、詳しくは下記とかそのリンク先とかを参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE


上記のページに記載されたとおり、コンスタンティノポリス司教ネストリオスによって説かれたネストリウス派は、西暦431年に開催されたエフェソス公会議においてその教義が異端であるとして排斥され、アッシリア地方(現在のシリアからイラクにかけての地方)などのオリエントから、さらに東方(中央アジア[西域]から中国にかけて)へと布教の地を広めていったそうです。
なお、現在でもアッシリア地方で信仰されている「アッシリア東方教会」は、ネストリウス派の流れを継承しているそうです。
東方へと布教の手を伸ばしていったネストリウス派は、ついに唐の太宗の時代(西暦635年)にペルシア人司祭「阿羅本」の手によって中国へともたらされ、唐の都長安には大秦寺という名の景教寺院も建立されたそうです。(ちなみに「大秦」の意味は、当時の中国語でローマ帝国


イスラム教徒との長い戦いである十字軍の時代から大航海時代にかけて流布された、はるか東方に存在するというキリスト教国「プレスター・ジョンの王国」の伝説は、まったく根拠の無い伝説だった訳ではなく、ネストリウス派の東方布教によって中央アジア[西域]から中国をはじめとする東アジアにかけての東方世界に、それなりのキリスト教勢力が存在したことが背景にあるそうです。
実際、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国によって勢力下に組み込まれた遊牧国家のいくつかはネストリウス派キリスト教国家だったそうですし、中国からヨーロッパまでユーラシア大陸に一大勢力を築いたモンゴル帝国の指導者層の中にもネストリウス派キリスト教徒が存在したそうです。


東方へと勢力を伸ばし、一時はそれなりの地位を築いたキリスト教ネストリウス派ですが、中国では唐末に起こった外来系宗教(仏教やマニ教ゾロアスター教など)への弾圧によって滅び、その他の地域でもイスラム教やチベット仏教の興隆とともに消え去ってしまったそうです。




著者のコメントでも軽く触れられているように、景教が日本へも伝来しているという説がありますが、非常に長くなりますので、ご興味のある方はそれ系のトンデモ本を読むか、「聖徳太子 キリスト」、「秦氏 キリスト」、「太秦 景教」、「空海 景教」、「いろは歌エス」等で検索してみてください。