楽隊のうさぎ、第二楽章

今日も通勤途中の車内で、「楽隊のうさぎ」の続きを読みました。今日読んだ部分は、一年生のコンクールの季節から、二年生のコンクールの曲が決まったあたりまでです。この部分では、コンクールに負けてしまった後の虚脱感、先輩の引退、新しい体制のスタート、退部者の発生、新しい担当楽器への異動、下級生の入部などといった出来事と、それらの出来事を通じた主人公の心と体の成長が描写されていました。

さて、今日読んだ部分の中でも特に印象に残ったのが、

  1. ソリストになりたいと思ってレッスンに通っていたフルート吹きの女の子が、「ソリストになりたいなら、ヘタクソの中に混じってはいけない*1」と言われ、辞めたくないにもかかわらず部活をやめざるを得なくなった話。
  2. 主人公がパーカッションの先生に受けたレッスンの中で「打楽器奏者に必要なのは決断力なんだ*2」と言われた話。
  3. 主人公が一年生の時の部長であるクラリネット吹きの男の子が、「だって、真剣にやらなきゃ、つまんねェもの。音楽は楽しくなんて言われても、困るし*3」との理由で、高校のクラブを退部してしまった話。

という3つの出来事でした。
音楽関連の部分ばかりを選んでしまいましたが、これ以外にも色々と印象深い部分がありますので、詳しくは本を読んでくださいね。
 
1番めの出来事ですが、まだこの小説を最後まで読んでいないので、この出来事がどういう話の伏線になっているのか分かりませんし、あるいはこのまま話が膨らまずに終わってしまうのかもしれませんが、色々と考えさせられる出来事です。このフルート吹きの女の子は、フルートのソリストになりたいし、ブラバン(吹奏楽部)も続けたい。にもかかわらず、どちらか一つを選ばなければならない状態になった、と。その結果、この女の子は「フルートのソリストになりたい」という夢を選択し、吹奏楽部を辞めてしまった、と。
あまりこういったタイプの二者択一で悩んでいる話を聞いたことがありませんが、「勉強か、部活か」という二者択一であれば、おそらく吹奏楽部に在籍したことがある方なら、その吹奏楽部人生の中で必ず何度かは目にしてきたはずでしょうし、もしかすれば自分自身がこの二者択一を迫られたことがあるかもしれません。
これらの「二者択一」ですが、果たしてどちらか一つを選択しなければならない種類の「二者択一」なのでしょうか? 私は違うと思いますが。
 
「打楽器は決断力」と言われた2番目の出来事ですが、こちらの言葉にも色々と考えさせられました。この小説の主人公ですが、どうも意志薄弱で決断力に欠けている子のようで、入学した時も「学校に居る時間はできる限り短くしたい」などと愚痴をこぼしていました。「打楽器は決断力」というレッスンの先生からの言葉は、おそらくこの主人公が吹奏楽部での部活動、パーカッションという楽器を演奏することを通じて、精神的に大きく成長していくことへの伏線でしょう。
たしかに打楽器は決断力が必要です。常に「ここで入るのが正しい」と確信して叩かなければなりません。クラリネットなど他の楽器を吹く人間であれば、その部分がソロでもない限り、分からない点があれば自分の吹くべき音符をパスしてしまうことも可能ですが、打楽器パートはそういう訳にもいきません。合奏における打楽器奏者の決断は、すぐ「音が有るか無いか」「音の入りが合っているか間違っているか」という形で、その演奏を聞く人の耳に伝わってしまいます。叩こうか叩かないか、入ろうか入らないか、楽器の前で躊躇している暇なんてありません。
あー、私も決断力が向上するのなら、パーカッションに入れば良かった(おぃ
 
3番めの出来事ですが、私もまさかこんな小説でこんなディープなネタが出てくるとは思いませんでした。「高校の吹奏楽レベルが低いからイヤ」と、高校の吹奏楽部に入らなかった吹奏楽経験者の話を私も耳にしたことがありますが、これって一体どうなんでしょうか? 音楽的に物足りなさを感じてしまい、高校の部活に入りたくなくなってしまうのでしょうか? 「○○先生の音楽じゃないと、音楽なんてやりたくない!」なんていう発言も耳にしますし。
高校生も主力メンバーとして活躍している一般吹奏楽団体の多くが、実はそういった理由で作られたものである、と以前聞いたことがあります。
私は「中学生は中学の、高校生は高校の、大学生は大学の、それぞれバンドに入るべし」と以前から思っています。なぜなら、中学生のバンドは中学生でしか、高校生のバンドは高校生でしか、大学生のバンドは大学生でしか、それぞれ経験することができないからです。私も社会人となった今は一般楽団に入っていますが、一般楽団なんて、いつでもどこでも誰でも、その人が死ぬまで入団することが可能な訳ですから、わざわざそんなに焦って一般楽団に入らなくても良いのに、と思うのですが。
この小説の中で彼の退部は「べんちゃん後遺症」と語られていますが、「べんちゃんの音楽じゃないと、音楽なんてやりたくない!」と思うに至ったのでしょうか? それともべんちゃんは関係なく、ただ単に彼の入った高校の吹奏楽部のレベルがとてつもなく低かったのでしょうか? はたまたは単なる理由付けで、彼はもう音楽や吹奏楽自体に飽きてしまったのでしょうか?
音楽レベルの問題ということであれば、どうすれば「顧問の手*4」によって高いレベルの音楽を知ってしまった子どもたちの音楽的充足感を充たすことができるのでしょうか? 卒業後のことを考えて音楽的に自立できるように中学校の部活動の中で育てていくべきでしょうか、それとも顧問が彼らに中学卒業後も「顧問の手による音楽」を体感させる場を与えるべきでしょうか? 私は最終的には自分の道を歩むこととなる彼らのことを考え、前者が好ましいと思うのですが。
 
話は変わりますが、この3番で話題になった吹奏楽部前部長でクラリネット奏者の有木君ですが、既に世間から吹奏楽部が「女の子の入る部活」と認知され、その吹奏楽部の中ですら木管楽器に対して「女の子が担当するべき楽器」という誤った認識が定着してしまった苦難に満ち溢れるこの時代、あえて男子部員の数が圧倒的に少ない公立中学校の吹奏楽部に入部し、その吹奏楽部でも男子の割合が極端に低いクラリネットを担当し、しかも部長まで務めていた男の子です。しかも彼はコンクールという緊張感が極限まで高まった場で、あのキワモノとても難しい課題曲である「交響的譚詩」のクラソロを中学生ながら平然と吹きこなすような男の子です。
対して私はといえば、通っていた中学校が男子校だったため、吹奏楽部も男の子が入る部活であり、木管楽器ももちろん全員が男子という環境で、高校生が新入部員の面倒を見てくれ、上級生になっても役職はパートリーダー程度(←同学年が俺一人、よって俺が自動的にパートリーダー)、目立ったソロはほとんど貰ったことがない(←俺、練習して上手くなれ!)。 そのクラリネット人生の初めにイバラの道を歩んでしまった有木君とは違い、私って随分と楽な道を歩んできたもんだ。
そんな私ですが、共学の学校であれば吹奏楽部に入らなかったでしょうし、万が一何かの間違いで吹奏楽部に入ってもクラリネットには配属されず、世間のセオリー通りに金管中低音を吹かされていたことでしょう。以前からそういう事を思ってていたためか、決して表には出しませんが、共学の中学・高校の吹奏楽部でクラリネットを始めた私と同年代以下の男性クラリネット奏者の活躍に対し、私は常に尊敬と関心の眼差しで見つめています。
いったい有木君はどんな男の子で、なぜ吹奏楽部に入り、なぜクラリネットを吹くことになり、パートやクラブではどのように立ち振る舞っていたのでしょうか? いろいろと想像が深まります。

*1:文庫版P171より

*2:文庫版P180より

*3:文庫版P201より

*4:決して「自分の手」でない点に注意