おほなゐ

この週末は、いよいよ淡路島で天野正道作曲「おほなゐ」の合同演奏会が開かれるということで、今日はこの曲について少し調べてみました。
 
この曲ですが、正式には「おほなゐ〜1995.1.17阪神淡路大震災へのオマージュ〜」という名前だそうで、陸上自衛隊東部方面音楽隊隊長の岡野敬三氏の委嘱により作曲されたそうです。「おほなゐ」は大地震を意味する古語だそうで、曲は「第1楽章『瓦解』」「第2楽章『荒廃、Requiem』」「第3楽章『復興、そして祈り』」という3つの楽章から構成されています。

第1楽章「瓦解」では、まず鳥のさえずり声も聞こえる震災当日の冬の夜明けの情景が描写され、朝のテレビ番組からは軽快なテーマ音楽が流れだし、いつもと変わらない一日が始まろうとしていたその時、突如襲った未曾有の大地震。荒れ狂う音の嵐を通じ、地震の壮絶な揺れや、その揺れに驚き戸惑い逃げ惑う人々、そして街が崩れ去っていく情景が描写されている。しかし震災の被害はこれだけでは収まらない。やがて崩れ去った街の各地から火の手が上がり、次は荒れ狂う火の手から逃げ惑う事に。街には緊急車両のサイレンが鳴り響き、人々の不安感と絶望感はますます高まっていく。この楽章では、そんな震災当日の情景がリアルに描写されている。

第2楽章「荒廃、Requiem」は、ワイングラスに水を入れてこするという不思議な音色から開始される。この楽章では、脆くも崩れ去ってしまった街、絶望に打ちひしがれる人々、そして犠牲者たちへの祈りが表現されている。この楽章は、天野氏が園田学園吹奏楽部の顧問の先生から受け取った「数少ない乗客は誰一人声を出さず、静まりかえっていました。乗客も見ず知らずの人に対して喪に服しているという雰囲気でした。いくら列が長くてもみんな黙って整列して待っていました。言葉を失う、言うべき言葉が見つからない、という表現を実感したときだったと思います」という、震災直後の電車内での人々の様子について書かれたメールが元になって作曲されたとのこと。*1 この楽章では、震災の後に街を覆った重苦しい空気が描写されている。

第3楽章「復興、そして祈り」は、第1楽章と全く同じく冬の夜明けの情景が描写されるものの、街に復興の槌音が鳴り響く行進曲風の音楽に一転し、ボランティアや行政、その他多くの人々からの様々な支援、そして住民自身の力によって街が力強く復興していく様子が描写されている。しかし、たとえ街や生活の復興が進んだとしても、いまだに人々の心の奥底には地震によって受けた傷が深く残っているという事実と、この震災に関する事柄を風化させないようにという願いと、未来への祈りが込められている。おそらくこの楽章では、震災から数年が経った後の街の様子が描写されているのだろう。

初めて全曲を通して聞いたとき、第3楽章がそれまでの混沌かつ殺伐とした曲の雰囲気とは全く異なっており、なんとなく蛇足で付け足したようにも聞こえてしまいました。が、第3楽章の無い「おほなゐ」は、たとえ音楽的にはすっきり収まったとしても、あまりにも曲として悲しすぎますよね。
 
私は地震が起きた時は富田林に住んでいましたので、激しい揺れこそ感じたものの、別段何の被害も受けませんでした。しかし、大阪市内にある私の学校に兵庫県方面から通学している人たちは、この地震によって色々な被害を受けたそうです。幸いにも同じ学校の友人には、この地震によって犠牲になったり大怪我をした人間は居ませんでしたが、電車が動かないのでしばらく学校に登校できなかったり、電気ガス水道が止まってしまったために非常に不便な生活を強いられたりと、様々な苦労もあったようです。
兵庫県方面から通学している人たちがこの地震によって様々な苦労を強いられている中、、たった数キロ、たった川一本隔てただけの大阪市内では、普段と何ら変わらないような生活が繰り広げられていました。私も当時通学していた学校からわずか十数キロ先では、家が潰れ、ビルが倒れ、多くの人が家財の下敷きや火事で亡くなり、鉄道や道路は寸断され、避難所には人は溢れ、食料や必要物資が不足しているなんて、マスコミからの情報としては知っているものに、実感としては全く信じられませんでした。富田林に住んでいた私の地震当時に関する記憶は、学校の知人たちから聞いた話と地震の激しい揺れ以外は、他の地方在住の方々と同じく、マスコミから得られた情報だけです。
そんな私がこの曲を演奏して良いのか、それ以前にそもそもこんな生々しい内容の曲を演奏して良いのか、色々と思うところもありますが、「震災に関する事柄を風化させないようにという願いと、未来への祈り」を込めて、この曲を演奏したいです。
 
ちょっと辛気臭くなってしまいましたが、演奏会に向けてハッスルハッスル!